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記録的な写真

on 2026-07-05

概要

常々抱えていた写真を撮るうえでの持病の解決の糸口をつかんだので話そうと思う。

前書き

常々、私は自分が撮る写真が記録的過ぎると感じることが多々あった。 記録的な写真とは何か。挙げるとしたら以下のものがあると思う

  • 記録的な偉業を達成した写真
  • 記録的な偉業の場を撮影した写真
  • 歴史的な写真
  • 年間最優秀写真
  • 写真の記録性が色濃く出た物

一番最後写真の記録性が色濃く出た物過ぎると感じることがある。

写真の記録性

記録の定義

ここで言う「記録」とは、目の前にある現実をそのまま保存することではない。 それは、「写真機(装置)というシステムがあらかじめ用意した選択肢のなかで、目の前の情景を処理・翻訳した結果」であると定義する。

カメラという装置は、光の捉え方から構図の収まり方に至るまで、人間が作った「こう写るべき」というプログラム(概念)で満たされたブラックボックスだ。

私たちがシャッターを切って何かを「記録」するとき、それは世界のありのままを写し取っているのではなく、その装置のプログラムを1回実行し、世界の断片を「データ(情報)」へと翻訳しているに過ぎない。

つまり記録とは、現実そのものではなく、装置のルールに従って世界を記号化(シンボル化)した結果なのである。

記録性

写真というメディアは、主に写真機(写真装置)を用いて生成される情報体と言える。
写真自体に価値はなく、写真に写っている(記録されている)情報に価値がある。例えば、何も写っていない印画紙は写真ではなく。撮影データを焼き付けた印画紙をもって始めて写真と呼ばれるようになる。つまり、写真自体は記録されて初めて写真でありそもそもの存在が記録的な媒体であると言える。

記録性の排除

写真が記録的なメディアであれば、写真機は記録的を実行するために最適な装置になる。

シンボルをシンボルとして、記号を記号として写し取るように最適な設計がされているカメラに従い、我々機能従事者が何も考えずに カメラが提示する"最適"を盲信し、さながら猿のようにシャッタボタン(決定ボタン)をポチポチ押すというわけだ。

結果、写真が記録になる。

写真から記録性を排除する場合、その装置が与えられた任務・設計を覆す必要があるのではないだろうか。 例えば「鮮明に写さない」「あえて真っ白にする」とかだろうか。

あるいは、「どこそこに行った記録」ではなく、「光と影が偶然作り出した、意味を持たない純粋な配置」を切り取ることなのだろうか。

この先に私が撮る写真があるのだろうかとは思うがその先まで思考はめぐっていない。